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「DIARY」に寄せて

相馬泰(写真家)

 いきなり私事で恐縮だが、オーム真理教の地下鉄サリン事件当日、筆者が築地駅近くを通り過ぎた時、駅周辺の異様な緊迫感とその周りの日常的光景との落差を今も鮮明に記憶している。
 8月の暑い最中、危篤の父が亡くなった日、病院から家へと戻る途中のいつもと同じ街の様子も深く記憶に刻まれている。
 昨日と今日とでは事物は同じようにそこに在る。それを見る人間の心理的な状況に応じて、見えてくるものの感じ方が微妙に異なってくるのだろう。
 山崎弘義の撮った写真を見て最初に感じたのはそのようなことだった。

 「DIARY」と題されたこれらの写真は、日々撮られた母親のポートレートと自宅の庭の片隅の光景との1組で成り立っている。
 淡々と認知症の母親を撮る行為は、1枚の不在のポートレートへ向けて積み重ねられていく。見る見られるという相互の関係性の上に成立するポートレートは、時に淡々と人間を観察することでの視線の暴力性すら感じさせる。日々相対しながらも徐々に相手を認める意識が弱まって行く過程を経ることで、移ろいゆく意識の最後のほのめきや内面の揺らいでいく様をも写し撮っている。
 ポートレートを撮った次のコマには必ず自宅の庭の写真が並んでいる。1枚では単なる庭の眺めに過ぎないものがシークエンスにすることで時の推移としての季節を光の加減や植物の変化から読みとることが出来る。植物の変化とはもうひとつの生命の流れであり、そのシークエンスが時の流れを表象している。時とは植物に喩えられた生命の変化のことに他ならない。昨日と今日とのささやかな違いが世界を構成する要素としての陰陽の如く捉えられている。

 優れたスナップシューターでもある山崎が今回「DIARY」と題して、自己の記憶の糧の為に自分と母親の関係性をこの写真に托したのだろうとは思う。しかしながら、もうひとつの可能な在り方を示唆したい。
 通常、写真を見る行為とは写された現前の画像を見ることは明白なことだ。写された画像には常に写した人が、写した状況が、見えないものとして存在している。それはレンズのこちら側の事柄として存在している。これらの写真を見る際にレンズのこちら側のことに思いを馳せて欲しい。
 一般的にストリートスナップの構成要素とは、背景となる街並みと画面の中心を占める人物とで成り立っている。今回の山崎の写真とは、それを別々に分解して表してみたものとも云えよう。写真を見る側が、それらをいま一度再統合してみることで様々な事柄が見えてくるのではないか。また、その際の組み合わせ方の多様さにこそ、この写真の別の見え方が現われてくるのだ。写されたもの同士、写す側の在り様、庭を眺めているときの心象、写された写真を見たときの自分の感じ方。それを庭やポートレートに重ね合わせて写真を見る。それらの行為を通して写真を見る側に生じるのが自己の精神的な状況のスナップショットになるのではないか。
 眼前の諸相の変化を一瞬に凝結させるのがスナップショットならば、この写真を見ることで内面の諸相を一瞬だけ凝結させることも出来よう。しかも、要素の組み合わせの多様性において多様な見えが現出もするのである。計らずも、写真の在り様とその受け取り方の多様さと云う可能性をこれらの写真が指し示しているように思えるのだ。

 優れた写真とは常にその撮影者の思惑を超える形で立ち現れてくるのである。